【読書記録】権利としてのキャリア教育

目次

はじめに

私が読書を始めたキッカケや他に読んだ書籍については,以下のページにまとめています。

基本情報

タイトル権利としてのキャリア教育
著者児美川 孝一郎
出版社明石書店
発売日2007年04月19日
ページ数195ページ

概要と感想

本書は『キャリア教育のウソ』『キャリア教育がわかる』でおなじみの児美川先生による書籍であり,児美川先生の本の中では古くに書かれた本の一つである。とはいえ内容は全く色褪せておらず,むしろ現代でも通用する普遍的で鋭い主張がなされている。私もすっかり児美川先生のファンである。

最終章で「権利としてのキャリア教育」を論じるため,本書ではまずキャリア教育を取り巻く状況やキャリア教育の成り立ちが説明されている。『キャリア教育がわかる』と内容は重複するものの,本書の方がより解像度が高く,語り口も批判的である点が印象的だ。

1990年代以前までは,「新規学卒就職」という仕組みにより学校から仕事への移行が円滑に行われていた。この仕組みにおいては,日本の若者たちは在学中は全面的に親に依存する生活を送り,就職した後には終身雇用に主張されるように「企業丸抱え」のかたちで庇護されることで「おとなへの移行」のプロセスが直線的に実現していた。これをまとめた一節が以下である。

簡単に言ってしまえば,「戦後的青年期」を生きた若者たちが「おとなになる」プロセスは,安定的な「新規学卒就職」という「学校から雇用への移行」パターンを盤石な土台としながら,そこでの「職業的自立」の道筋に,「親からの自立」や「社会的自立」を促す仕組みが随伴することによって成し遂げられていたのである。それは,若者や親の側から見れば,学校時代を大過なく過ごし,「学校から雇用への移行」ルートに乗ることさえできれば,若者が,社会のメイン・ストリームへと参入し,いずれは一人前のおとなになっていくことを見通せた(期待できた)ということでもあった。

…その結果,生まれたのが「いい高校→いい大学→いい会社→幸せな人生」という大衆的規模での学歴(学校歴)信仰であり,そのもとに展開された激しい受験競争や学力獲得競争であったことを看過するわけにはいかないだろう。

『権利としてのキャリア教育』p.32より引用

しかし,1990年代以降は,「新規学卒就職」の仕組みが急速に崩れはじめ,若者が安定的な形で「おとなになる」プロセスを歩むことができなくなってしまった。この原因を記した部分を引用する。

1990年代以降,日本企業が新規の採用活動を手控え,「正規雇用」を「非正規雇用」に置き換えていった背景には,たしかにバブル崩壊後の日本経済の長期不況や,グローバリゼーションの進行の中での国際的な経済競争の激化といった要因があるだろう。しかし,それだけであれば,景気の回復と日本企業の業績向上によって,再び「正規雇用」が増やされ,「日本的雇用慣行」が復活するといった状況も想定できなくはないはずであるが,自体はそうはすすまない。…明らかに企業側の長期的な経営戦略の一環として,つまりは「正規雇用」をスリム化したうえで,不足分は「非正規雇用」で補う,…そしてそのことによって,企業の雇用管理そのものを「低コスト」構造へと転換させていこうとする意図によっておしすすめられてきたことを看過するわけにはいかない。…近年の国の雇用政策(=「労働力の流動化」政策)は,こうした企業側の意図を汲んで,その経営戦略の遂行を後押しするものであったのである。

『権利としてのキャリア教育』p.32より引用

語弊を恐れずにやさしい言葉で表現するならば,「企業が利益を追求するために非正規雇用を拡大し,その煽りを真っ向から受けたのが当時の若者たちであった」ということだろう。私自身,非正規雇用が増加した背景にはバブル崩壊という経済的要因が大きく横たわっていると理解していたが,その裏側にこれほど残酷な構造があったとは思いもよらなかった。

さらに,たとえ正規雇用として採用されたとしても,成果主義の導入という荒波の中で長時間・過密労働が常態化していった。こうした職場環境において企業が求めるのは常に「即戦力」である。人を育てる時間的・精神的な余裕が失われた結果,若者たちが「大人になる」ためのプロセスを安定的に歩むことは極めて困難となったのである。

少子化の進行や日本的雇用慣行の再編により,かつての熾烈な学力・進学競争は形を変え,一見すると弛緩したようにも見える。しかし一方で,一歩社会に出れば過酷な能力主義と競争主義が幅を利かせる世界が待っている。この「入り口の緩さ」と「出口の厳しさ」のギャップこそが,若者たちを苦しめ,逃げ場のない「透明な閉塞感」を抱かせる要因となっているのだという。

…「努力」を続けねばならないということは,並大抵の意志や行動力でもってできることではない。にもかかわらず,そうした学力競争にしがみつかざるをえない層のこどもたちには,自らの「努力」に見合うだけの"将来"が,しっかりと保障されるわけではないのである。

「上層」のこどもたちに与えられるのは,「中・下層」の子どもたちと比較した場合の"相対的な優位性"のみである。この確実性ならぬ"相対性"に耐えながら,規律化された日々の学習と生活に向き合う彼/彼女らの心象風景が,けっして明るく開放的なものとはなっていないこと,むしろ鬱屈した状態にあることは,想像に難くないだろう。

『権利としてのキャリア教育』p.60より引用

これを踏まえれば,例えば以下は必ずしも的確な状況認識と判断に立ったものではないと言える。

  • いわゆる「よい子」や「普通の子」が少年犯罪や事件などの当事者となること
  • できるだけ早い時期から子どもを学力・進学競争で優位にさせる親の教育戦略

日本のキャリア教育はアメリカにおける「キャリア・エデュケーション運動」を参考にしている。この運動は,1971年に全米中等学校長協会において連邦教育長官マーランドが,職業にかかわる教育を「職業教育(vocational education)」と呼ぶのをやめ,「キャリア・エデュケーション(career education)」と呼び代えることを提案したことに端を発している。この提案は以下の課題に着目したものである。

  • 普通教育と職業教育とを切り離さずに併行して行うこと
  • 学校教育が子どもたちの適切な職業選択と職業的自己実現のための教育を提供すること

キャリア・エデュケーションはしだいに全米に広がっていき,法律上は次のような定義を与えられることになる。

キャリア・エデュケーションとは,個人が,人間としての生き方の一部として職業や進路について学び,人生上の役割や選択と職業的価値とを関連づけることができるように計画された,経験の全体である。

『権利としてのキャリア教育』p.67より引用

『キャリア教育がわかる』でも解説されている内容と重複するが,職業教育とキャリア・エデュケーションの違いは以下のように整理することができる。

単純化を覚悟で言えば,職業教育は,特定の職業につくことを想定して,そこで必要とされる知識や技能を習得することを目的とする教育であるのに対して,キャリア・エデュケーションは,職業教育を内に含みながらも,児童・生徒の生涯発達のプロセスを射程に入れるという意味でも,職業的な知識や技能の習得だけではなく,人生観や労働観・職業観の育成,進路選択へのガイダンスなど,児童・生徒の「生き方」そのものを視野に入れるという意味でも,より幅広く包括的な教育であると整理できるだろう。

『権利としてのキャリア教育』p.70より引用

筆者の以下の文章は皮肉が効いている。ただし,筆者は教育現場を最大限尊敬しているし,決して下に見ている訳ではないことは補足しておきたい。私も同様に教育現場の方々を尊敬している。

もし仮に…日本の学校現場において,キャリア教育が,既存の教育課程に新しい教育課題をひとつ付け加えたもの,ないしは,従来の進路指導を"衣替え"したものであるかのように理解されているとすれば,あるいは,職業体験(インターンシップ)さえ実施すれば,キャリア教育をしたことになるかのような理解がまかり通っているのだとしたら,なによりそうした理解の"狭隘さ"が真摯に認識され,自省されなくてはならないだろう。

『権利としてのキャリア教育』p.70より引用

筆者によれば,キャリアとは次のように定義しており,

「ワークキャリア(職業上の経歴)」との関連における「ライフ・キャリア(生き方の履歴)」のこと

キャリア教育とは次のように定義している。

  1. 学校の教育活動全体を通じて取り組まれるべき教育の理念
  2. 子どもたちの卒業後の進路(生き方や働き方)を見据え,そこで必要とされる力を,彼/彼女らにまっとうに身につけさせるという目的をもった学校づくりや教育課程づくり,教育実践の視点
  3. 子どもたち自身を,自らの進路(生活と労働)の主人公に育てること

つまりキャリア教育とは,学校教育に本来求められる役割そのものであると言える。特に,キャリア教育を「自分の人生の主人公として主体性を発揮すること」と定義する考え方は非常に秀逸だ。というのも,私個人的には「主体性」というありきたりな言葉だけで片付けてしまうと,主体になること自体が目的化してしまうリスクを孕むと考えている。しかし,「主人公」という言葉を用いることで,いきいきと自分の人生を生きるためにこそ主体性を発揮する必要がある,という望ましい目的と手段の構造に整理することができる。

キャリア教育が求められる背景には,「新規学卒就職」や「企業内教育」といった従来の日本的雇用慣行が再編されている事実がある。これにより,学校教育には社会的・職業的な関連性がよりダイレクトに問われるようになった。従来のような学力や偏差値に基づいた「選抜する教育」だけでは,現代のキャリア教育としてはもはや不十分なのである。

ただし,注意すべきは,子どもや若者が抱える課題のすべてを教育現場で解決しようとするのは,「教育万能主義」に基づく空想に過ぎないという点だ。キャリアにおける諸問題は,企業の採用方針や政府の政策といった構造的要因によってもたらされている。その根源にアプローチしない限り,教育現場の努力だけで根本的な解決を図ることは困難である。

こうした背景を無視して教育の役割や課題ばかりを強調することは,社会の矛盾をすべて教育の現場で「始末をつける」かのような構図に落とし込みかねない。最悪の場合,若者たちが「自分が悪い」「努力が足りない」という自己責任論に押しつぶされてしまう恐れもある。キャリアの問題が彼らの個人的な責任で生じたものではないからこそ,学校教育は,子どもや若者を無防備な状態のまま社会に送り出してはならないのである。

本書のタイトルを回収することになるが,筆者は権利としてのキャリア教育の必要性を以下のように説いている。

民衆にとって「権利」とは,自らが座していても自動的に与えられるといったものではない。「権利」は,まさしくたたかいとるべきものである。その意味で,子どもたち・若者たちは…状況を改善していく主体へと成長していかなくてはならない。そのために,子どもたち・若者たちをエンパワーする課題を背負っているのが,筆者が主張する「権利としておキャリア教育」である。それはまた,教育に携わる私たち自身が,子どもたち・若者たちに伴奏しながら,彼/彼女らをまっとうな構成員として迎え入れることができる社会を創っていくという試みに,教育というルートを通じて参加していく営みでもあるのである。

『権利としてのキャリア教育』p.82より引用

上で日本のキャリア教育はアメリカのキャリア・エデュケーション運動を参考にしていると述べたが,実は直接的に輸入された訳ではなく,最初は広まることはなかった。これは,70年代以降の教育界においては進学・学力競争が急速に加熱したことが要因であり,学校が提供する「知」は受験で通用する知識でなくてはならないという意味で形式化・抽象化し,現実世界との関係を疎遠にしてしまったのである。

1977年の学習指導要領では「ゆとりの時間」を目玉に掲げて進学・学力競争からの脱却を図るが,キャリア・エデュケーション運動のように学校と社会の接続には焦点が当たることがなかった。これは「学校での成功が,職業世界での成功や処遇の優位につながる」という思想が,一定の事実とともに大衆に受け入れられていたからである。実際,欧米と比べれば日本の若年失業率ははるかに低い水準に抑えられていた。

日本におけるキャリア教育の源流は,1990年代の「業者テスト・偏差値」排除をめぐる文部省の強力な政策展開の影響が大きい。この政策では

  1. 「学校選択の指導」から「生き方の指導」への転換
  2. 「進学可能な学校の選択」から「進学したい学校の選択」への指導の転換
  3. 「100%の合格可能性に基づく指導」から「生徒の意欲や努力を重視する指導」への転換
  4. 「教師による選択決定」から「生徒の選択決定」への指導の転換

が掲げられていた。学校現場は混乱や戸惑いを感じながらも,これらの考えは徐々に普及・浸透していった。筆者は,これらの思想における落とし穴を以下のように忠告している。

…進路指導の改革方向は,基本的に肯定できる変化であり,教育の"本道"にもかなうものであろう。ただし,そうした改革が,1990年代初頭の一連の教育改革の文脈においてなされるとき,そこでの進路指導は,下手をすれば"全員参加型競争"を多元的な"種目別競争"に転換するという政策目的に沿って「活用」されるー教師が振り分けるのではなく,あくまで子ども自身の主体的な選択として,"分に応じた"進路を選ばせるという「役割」を担わされるー"危険性"が随伴することにも注意が必要なのである。

…子どもたちの進路分化は,ニュートラルな意味での「多様化」や「多元化」ではありえず,実際にはそのうちに格差を含んだ「階層的な多元化」にならざるをえない。

『権利としてのキャリア教育』p.96より引用

1990年代後半には,若年雇用問題(語弊を恐れずに言えばフリーターの増加問題)への対応策の文脈でキャリア教育が語られることになる。これにより,日本におけるキャリア教育の展開が「中学校をターゲットにした進路指導改革」という性格から「小学校〜高校を通じた若年雇用対策」としての性格を強めていくことになる。筆者は,若年雇用対策の登場を促した駆動力を以下のように説明している。なかなか生々しい部分である。

フリーターとは,「将来の社会的なコストになる可能性があり,現在の就業支援対策では十分活性化できていない存在」であるといった規定の仕方は…社会の側の危機感と,積極的雇用対策と採用しようとする政策サイドの意図とを見事に"接ぎ木"した表現にほかならないだろう。

『権利としてのキャリア教育』p.96より引用

他にも筆者は,若年雇用対策としてのキャリア教育を「新自由主義的な自己責任論のふるい」と表現している。すべての若者をエンパワーするのではなく,全てのやる気のある若年者を対象とするピックアップ型の支援策なのである。

これら以外にも,筆者は政策としてのキャリア教育の問題点を4つ指摘している。

1. 若者たちの意識や意欲,能力の問題に主要な関心を集中させ,若者たちを"テコ入れ"しようとしている

上でも述べた通りである。若者たちに意識の改革を迫ることで,構造的な社会矛盾に教育で始末をつけさせようとしている。

2. 勤労観・職業観をどう育成するかという点に収斂している

「観」の教育を重視するということで,専門的な技術の教育をどこでどう保障するのかという視点を希薄にしてしまう。また,"あるべき"や"望ましい"を道徳主義的に理解され,現代社会における労働や職業をめぐる状況を主体的かつ科学的に認識するための力が育たない。

3. 職場体験学習の推進が偏重されている

学校現場でのきちんとした議論や教員間の意思統一がないままにイベント的にこなされている。下手をすれば,生徒たちに「働くことの厳しさ」や「少々のことにはへこたれずに,がまん強く働く」といった勤労への心構えや忍耐力を学ばせる訓練の場にもなりかねない。

4. キャリアカウンセリングの手法が若年雇用問題の構造的要因への注目を削いでしまう可能性がある

自らの感情や心を自分自身で統御するキャリアカウンセリングの手法により,既存の社会のありようを問うのではなく,むしろ既存社会の特定の箇所に振り当てられる危険性がある。

特に,4.について著者は以下のように鋭い批判を述べている。

…現在の社会や労働市場の側の問題点を変えていくという「変革」の視点を欠落させ,将来にわたる子どもたちの「エンプロイアビリティ」を高めることで,既存の社会構造に彼/彼女らを適応させる"道具"となってしまう…

『権利としてのキャリア教育』p.142より引用

なお,若年雇用対策としてのキャリア教育については『キャリア教育がわかる』でも書かれているため参照されたい。


満を持して,最終章で著者は権利としてのキャリア教育を主張している。すべての労働者には「キャリア権」が保障されるべきであるという主張があるが,これは憲法13条が規定する「幸福追求権」に基礎をおきつつ,憲法22条の「職業選択の自由」および憲法27条の「勤労権」によって構成される「職業をめぐる自己実現の権利」であると理解できる。仮に個々の労働者がキャリア設計の主体になれない場合は,「勤労権」が実質的な意味では「権利」の体をなさない空疎なものになってしまう。

筆者は本文中で,権利としてのキャリア教育の解釈を以下のように与えている。

雇用の流動化がすすむ現代においては,個々の労働者には,自らのキャリア設計の主体となり,自らが蓄積した能力やキャリアの継続・発展のための配慮を事業主(企業側)に求める権利がある。逆に,事業主は,人事管理において個々の労働者のキャリア形成に十分な配慮をする義務がある。

『権利としてのキャリア教育』p.146より引用

筆者は,単に憲法によってキャリア権が保障されていることを説きたいのではない。むしろ,その権利を行使するために,個々の労働者がキャリア設計の主体として振る舞うための「力量」を身につけていることこそが重要であると主張している。

キャリア教育が必要とされるようになった直接的な契機は,進路指導改革や若年雇用問題だったかもしれない。しかし,たとえそれらの問題が生じず,「新規学卒就職」と「企業内教育」という日本的雇用の仕組みが現在も強固に継続していたとしても,キャリア教育は必要とされていたはずである。このことから,キャリア教育とは時代背景に左右される一過性の施策ではなく,普遍的に必要とされるべきものであり,あらゆる場所で「権利」として保障されるべきものであると言える。

キャリア権を行使する主体となるためには,単なる職業スキルの習得だけでは不十分だ。労働法や労働組合への理解といった「政治的教養」の獲得が不可欠となる。つまり,権利としてのキャリア教育は,社会の一員としての役割や権利を学ぶ「シティズンシップ教育」と有機的に結びつくことが求められるのである。

私は以前『キャリアデザイン学への招待』を読んだ際,なぜキャリア教育の柱にシティズンシップ教育が含まれているのかを十分に理解できていなかった。しかし,キャリア権を主体的に行使するための力量形成という視点を得たことで,ようやくその必然性を腑に落とすことができた。

筆者は最後に,権利としてのキャリア教育を現場で実現するために想定されるカリキュラム構造を提案している。

  1. 労働についての学習(人間存在にとっての労働の意味や,現代社会における労働の実態など)
  2. 職業についての学習(産業構造・職業・倫理・起業・NPOなど)
  3. 労働者の権利についての学習(労働三権・労働者保護法制・労働組合の役割など)
  4. 自己の生き方を設計し,わがものとするための学習(生き方・働き方・家族・進路など)
  5. シティズンシップ教育(市民性を育て,主権者となるための力量形成)
  6. 専門的な知識や技術の獲得(専門教育・職業教育)

権利としてのキャリア教育を実現していくためには,不当な就労条件や賃金の未払い,サービス残業や長時間・過密労働の実態から目を背けずに真正面から向き合う必要がある。また,従来のように社会への「適応」に振り切った教育ではなく「改革」の視点を含み,社会の中で仲間を作りながら自己理解を進めていくとよい。権利としてのキャリア教育は学校教育全体のなかに自然に埋め込まれるべきものであり,教育課程の点をつなげて線とし,政策としてのキャリア教育の意味づけをひっくり返す意識を持ち,学校の内外を積極的につなぐ視点を持つ必要があるだろう。

日頃のご苦労は,痛いほどわかる。忍耐と努力を重ねられていることも,肉体的にも精神的にも,けっこうきつい日常を過ごされていることも,よく理解しているつもりである。しかし,もし教師自身が,学校の教員という狭い"世界"と"殻"に閉じこもっていて,世の中の生き生きとした動きや魅力にあふれる生活者や労働者たちと出会うことができていないでいるならば,言葉の本来の意味において,その教師は,子どもたちに対するキャリア教育の「担い手」にはなれないだろう。

『権利としてのキャリア教育』p.174より引用

参考文献

明石書店
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