【読書記録】キャリア教育がわかる

目次

はじめに

私が読書を始めたキッカケや他に読んだ書籍については,以下のページにまとめています。

基本情報

タイトルキャリア教育がわかる
著者児美川 孝一郎
出版社誠信書房
発売日2023年06月20日
ページ数222ページ

概要と感想

本書は,キャリア教育を体系立てて解説した「教科書」ともいえる一冊である。著者の児美川は過去に「権利としてのキャリア教育」(2007年)や「キャリア教育のウソ」(2013年)を著しているが,本書はそれらの知見をベースに現代のキャリア教育を俯瞰し,問題点に鋭く切り込む内容となっている。管理人はこれまで複数の関連書籍を読んできたが,間違いなく一番の良書であると感じている。

キャリア教育とは,単なる職業準備教育ではない。子どもたちが社会に出る準備,すなわち「主体的に学べるようになること」「保護者から自立すること」「市民としての役割を果たすこと」を総合的に育む教育である。各ステークホルダーに対するメリットは以下の通り整理できる。

ステークホルダーメリット
子ども社会に出ていく準備ができる
政府・文科省日本社会が政治や行政に求める役割を果たしてくれる
若年就労問題の解消(ただし手段として適切かは疑問)
学校や教師子どもたちの学習意欲が向上する

本来,若年就労問題は求職者と企業の双方が抱える構造的な課題である。しかし,当時は「若者の意識」に原因を求めるバッシングの風潮があり,政府は「若者自立・挑戦プラン」を通じて政策手段としてのキャリア教育を推進した。そこでの主眼は「勤労観・職業観の育成」に置かれ,結果としてキャリア教育が狭義の概念に矮小化されてしまった点を児美川は鋭く指摘している。また,キャリア教育の本質は単なる失業対策や非正規雇用の抑制に留まるものではない。地方の存続や地域活性化にも寄与する広範な取り組みであるべきであるという。

続けて児美川は,キャリア教育への7つの誤解を解説している。

① キャリア教育は「上から降ってきた新たなタスク」である

キャリア教育は本来,学校教育が果たすべき根幹的な役割であり,決して「外部から降ってきた新たなタスク」ではない。しかし,これまで学校現場がキャパシティを超えた業務に追われてきた結果,その本来の役割を十分に認識して実践することが困難であったという背景がある。

一方で,公害教育や自然保護教育,情報教育,そして近年のSDGsなど,学校現場には往々にして政府からトップダウンで施策が降りてくる傾向がある。そのため,キャリア教育についても,これらの一時的な流行や追加課題と同列に扱われてしまう現状は現場の疲弊を考えればやむを得ない側面もあるだろう。

② 職業を扱わないとキャリア教育ではない

上述のような政策的背景から,キャリア教育のねらいが「勤労観・職業観の育成」に偏重した結果,現場では「子どもたちの将来の職業選択に資する活動」こそがキャリア教育であるという誤認が定着してしまった。

しかし,本来の勤労観・職業観とは,職業生活に留まらず,家庭や地域など様々な団体・組織における役割の遂行(ライフキャリア)を包含する概念である。児美川は,このように職業選択のみに焦点を当てた狭い視野での教育を「成立期のキャリア教育政策の呪縛」と称し,その弊害を指摘している。

③ 小学生にはキャリア教育はまだ早い

キャリア教育を進路指導と捉えると小学生にはまだ早いが,キャリア教育は進路指導に閉じた概念ではない。小学校含め,学校の教育課程全体で取り組まれるべきである。

④ 職場体験をやれば十分なキャリア教育になる

キャリア教育は学校の日常の教育活動に根ざして組み込まれるべきものであるため,単発のイベントを実行するだけで達成されるものではない。

⑤ 専門高校であればキャリア教育は万全である

職業教育=キャリア教育ではない。職業教育は職業世界が求める知識や技能の必要性から出発するが,キャリア教育は個人の必要性から出発するため,そもそも方向が逆である。

⑥ 進学校なのでキャリア教育は必要ない

キャリア教育のゴールは大学進学ではない。むしろ知名度や偏差値を基準にした大学選びはキャリア教育上有害であり,入学後のミスマッチや進学後の学習意欲の喪失を引き起こす可能性がある。

⑦ キャリア教育は教科教育とは無関係である

キャリア教育は学校教育全体を通じて展開されるべきものであり,当然ながら教科教育もその一翼を担う。ただし,そこには明確な役割分担がある点に注意が必要だ。具体的には,「総合的な学習の時間」などがキャリア教育そのものを直接の目的とする「狭義のキャリア教育」を担うのに対し,教科教育はその学習プロセスを通じて資質・能力を育む「広義のキャリア教育」を担う。つまり,教科教育が直接的に職業選択などを扱うわけではなく,あくまで各教科の特質に応じた教育活動が,結果としてキャリア形成の基盤を形作るという構造になっている。

学校現場が上記のような誤解に陥りやすい最大の要因は「時間的余裕の欠如」にある。現場に精神的・時間的なゆとりがないために,既存の仕組みや従来の概念に固執し,新たな考え方を心理的に遠ざけてしまうという構造的な拒絶反応が起きているのだ。こうした現場の窮状を踏まえ,児美川は次のように表現している。

…キャリア教育を遠ざける理由や根拠は,そもそも誤解に基づいている。しかし,では,そうした誤解さえ解ければ,それぞれの学校は,一挙にキャリア教育に邁進するようになるのか。おそらく,そんなことはないだろう。

その意味では,キャリア教育だけを良くしていくことはできない。現在の学校をめぐる教育条件の整備を図り,学校と教師の負担を軽減し,学校教育そのものを良くしていかなくてはいけない。この視点を持っておくことは,「教師たちの意識改革ができないから,キャリア教育が進まないのだ」といった,それこそあらぬ「誤解」(しかも,かなり上から目線の)をしてしまわないためにも大事なことであろう。

「キャリア教育がわかる」p.33より引用

「勤労観・職業観の育成」に限定されたキャリア教育が学校現場で普及した背景には,「夢」や「やりたいこと」を目標に据えることの便宜性がある。子どもに具体的な目標を持たせれば,教育的論理に基づいて努力を促しやすいため,指導者側にとって分かりやすく,扱いやすいのである。

しかし,安易な「夢追い型」のキャリア教育に終始することには慎重であるべきだ。夢は必ずしも実現できるとは限らないだけでなく,特定の目標に固執することでかえって視野や選択肢を狭めるリスクも孕んでいる。何より,やりたいことが見つからない子どもにとって「夢」を語ることを強いる空間は心理的負担が極めて大きい。こうした功罪を踏まえた,より多層的なアプローチが求められている。

児美川は,キャリア教育を扱う上で重要な2つのスタンスを述べている。

  1. 教育万能主義にならないこと
  2. 保護主義にならないこと

日本社会が抱える諸課題は多因子的かつ複雑に絡み合っており,キャリア教育がそれらを魔法のように一挙に解決できるわけではない。問題の根源が社会構造そのものにある場合も多く,キャリア教育を万能薬のように扱うべきではないだろう。キャリア教育の本質的な役割は,子どもたちが社会という荒野へ踏み出すための「最低限の武器」を手渡すことに尽きる。提供できるのはあくまで基盤であり,その武器をどう使い,どのような道を切り拓くかという主体的な判断と意思決定は,最終的に若者自身に委ねられているのである。


日本の教育政策におけるキャリア教育の定義は,これまでの紆余曲折を反映し,現在に至るまで3つの段階を経て変遷してきた。国内で初めて「キャリア教育」の概念が登場したのは,1999年の中央教育審議会答申である。この答申は本来「初等中等教育と高等教育の接続」の改善に関する諮問を受けて出されたものであった。しかし,当時は若年就労問題が深刻な社会問題化していた背景もあり,内容は「学校教育と職業教育の接続」への言及にまで踏み込むこととなった。本来,雇用問題は経済状況や労働市場の構造に起因する側面が大きい。しかし,当時はその原因が教育と職業の接続不全に集約,あるいは「丸められて」しまい,その閉塞感の中で誕生したのが初期のキャリア教育という概念であった。

【定義1.0】

キャリア教育(望ましい職業観・勤労観及び職業に関する知識や技能を身に付けさせるとともに,自己の個性を理解し,主体的に進路を選択する能力・態度を育てる教育)を小学生段階から発達段階に応じて実施する必要がある。

「キャリア教育がわかる」p.52より引用

児美川はこのキャリア教育の定義を「にわか仕立て」と切り捨てる。「職業教育+進路指導=キャリア教育」という狭い視野での定義に留まっている点に加え,「望ましい」という言葉の裏には,政府や文科省による「正規雇用を目指すべき」という特定の価値観が投影されていると指摘する。なお,このような定義が形成された背景には,1990年代における進路指導改革の流れと,深刻化する若年就労問題への対応という2つの文脈が深く関わっている。

その後,政府は2003年の「若者自立・挑戦プラン」において,全国の学校がキャリア教育に取り組むためのガイドライン作成を調査研究協力者会議に委嘱した。その報告書において,キャリア教育は次のように定義されることとなった。

【定義2.0】

児童生徒一人一人のキャリア発達を支援し,それぞれにふさわしいキャリアを形成していくために必要な意欲・態度や能力を育てる教育

「キャリア教育がわかる」p.55より引用

キャリア教育の定義に「キャリア発達」という用語を用いる循環論法になっており,キャリア教育の定義としては不適切であろう。実際,報告書の中ではキャリアをやや難解な表現を用いて次のように定義している。

【定義2.0つづき】

個々人が生涯にわたって遂行する様々な立場や役割の連鎖及びその過程における自己と働くこととの関係付けや価値付けの累積

「キャリア教育がわかる」p.55より引用

この分かりにくい表現を正すためなのか,報告書には以下の内容が追記されたという。

【定義2.0+α】

「キャリア教育」とは何かを端的に言えば,「児童生徒一人一人の勤労観,職業観を育てる教育」である

「キャリア教育がわかる」p.57より引用

児美川はこのキャリア教育の定義を「蛇足であり,勇足である」と切り捨てる。この定義では,職業や仕事に直結する「ワークキャリア」のみを扱うのがキャリア教育である,という誤解を招くリスクがある。実際,その定義の単純さゆえに学校現場は一斉にこの解釈へと飛びつき,結果としてワークキャリアに限定された狭義のキャリア教育が推進される事態を招いてしまった。

中央教育審議会は2011年,キャリア教育を次のように定義した。

【定義3.0】

一人一人の社会的・職業的自立に向け,必要な基盤となる能力や態度を育てることを通して,キャリア発達を促す教育

「キャリア教育がわかる」p.58より引用

循環論法に変わりはないが,「社会的自立」が含まれるようになった点は特筆するべきである。ワークキャリアに閉じずにライフキャリアも含めた幅広い概念としてキャリア教育が定義されたのだ。今ではこの定義が普及・浸透しつつあるという。

現在のキャリア教育は,以下の3つのステージに分けられる。

1stステージ(2004年〜2010年あたり)

定義2.0+αが広く知れ渡り,職業や仕事に向かう意識や能力を育てることがキャリア教育と誤解されている時代。教育政策側の慌てぶりと学校現場の困惑が象徴的な期間。

2ndステージ(2011年〜2016年あたり)

学校現場の混乱を収め,定義3.0に従って学校教育全体でキャリア教育に取り組む仕組みを「体系的・系統的・組織的」に仕立てた時代。例えば中学校の職場体験と高校のインターンの接続性など。

3rdステージ(2017年〜現在)

キャリア教育を学校教育の「日常」に埋め込もうとした時代。教育課程側にキャリア教育を位置付けることにより,学校現場の内部に有機的にキャリア教育を溶け込ませて内在化させることを目指している。

これまで述べてきたキャリア教育は主に高校までを対象としているが,大学においても同様の取り組みは展開されている。ただし,その導入背景は初等中等教育とは大きく異なる。学校教育においては,文科省によるトップダウンの政策決定と教育行政を通じた強力な指導・助言に基づき推進されてきた。

対して大学では,バブル崩壊後の非正規雇用の増加により「大学から職業への移行」が困難になったことや,少子高齢化による大学間競争の激化を背景としたボトムアップの自主的な取り組みとして広がったという。大学のキャリア教育において民間企業と連携する際には,支援の在り方が過度にワークキャリアへ傾倒しないよう,細心の注意を払う必要がある。


第III部では,先述した「狭義」と「広義」のキャリア教育について深掘りがなされるが,内容には少し歯切れの悪さを感じた。特別活動などを活用した「狭義のキャリア教育」は,キャリア教育そのものを直接の目的とするものであり,いわば扇子の「要(かなめ)」の位置を占める。一方,各教科などを通じた「広義のキャリア教育」は扇子の「羽」に相当し,この両者が連動して初めて扇子(キャリア教育)は機能する。しかし,本書ではこれらを具体的にどう連携させるべきか,あるいは「広義のキャリア教育」は単なる綺麗事に過ぎないのではないかといった疑問に対し,キャリアパスポートの例を除いて鋭い言及は見られなかった。

学校現場において広義のキャリア教育が浸透せず,狭義の取り組みに終始してしまうのは,具体的なイメージが湧かないからではないだろうか。子どもたちにとっても進学は最大の関心事であり,部活動や宿題に追われる日常の中で,「ライフキャリア」という広大な概念に向き合う余裕はないのが実情だろう。現行の学校教育の枠組みにおいて,広義のキャリア教育がどこまで実現可能なのか,その実効性については依然として検討の余地が残る。

本書で説明されている教科教育における広義のキャリア教育のあり方は,以下の3点に集約される。

  1. 学習指導要領に沿った「主体的な学び」を追求することで,学びと社会との関係,学びと自己の生き方(キャリア形成)との関係を考えさせられる
  2. 教科で学ぶ内容とキャリア教育の関連を意識することで,社会理解や自己理解を深める
  3. 教科での学びを通じ,キャリア教育で求められる「基礎的・汎用的能力」を育成する

ただ,前述した通り,他の記述に比べるとこの箇所は少し歯切れが悪い。「至極真っ当な正論」が並んでいるに過ぎないという印象だ。結局,広義のキャリア教育の議論を突き詰めると,「なぜ学校に通うのか」「なぜ勉強するのか」といった教育の本質に関わる究極的な問いに直結してしまうのかもしれない。

また,キャリア教育の「評価」に関する主張も踏み込みが甘いと感じた。評価には「子どもに対する評価」と「教育プログラムに対する評価」の二側面があり,両者は目的が異なるものの,相互に関連させて活かす方針が考えられる。前者は,教科教育のような相対評価ではなく,一人ひとりの目標設定に基づく個人内評価であるべきだ。一方,後者は観点別の到達度やアンケートによる客観的評価が用いられる。しかし,これらも概ね「想定の範囲内」の記述に留まっており,管理人としてはもう一歩踏み込んだ具体的な考察を提示してほしかった。

本書の終盤では,「社会人経験のない教師にキャリア教育ができるのか」という古典的なトピックが論じられている。児美川は「できる」という明確な立場を取る。そもそも教師は立派な職業人であるし,「社会人経験」を民間企業経験と定義したとしても,一人の人間が経験できる社数などたかが知れており,それをもってキャリア教育の適性を判断するのは筋違いだという主張である。

穿った見方をすれば,そこには大した根拠などなく,それは,ある時期以降ずっと繰り返されてきた「学校たたき」や「教師バッシング」の一環でしかないのではないかとも思えてくる。

ただ,にもかかわらず,世の中には「教師にはキャリア教育を任せられない」と言わんばかりの言説が,ある意味では根拠もなく溢れている。重大なのは,少なくない教師たち自身も,そうした言説を内面化してしまっているのではないかということである。

…民間企業の勤務経験の有無にかかわらず,あらゆる職業を経験し,その内容を熟知しているものなどいるはずがない。そうであれば,キャリア教育の取り組みにおいて重要なのは,自らの経験値が及ばないことをどう補うかの術を身につけていることであろう。その意味では,あえてこういう言い方をするが,教育の専門家である教師に,キャリア教育ができないわけがない。

「キャリア教育がわかる」p.169より引用

ただし,この主張には条件がある。教師としての専門性だけではカバーしきれない領域や,外部連携によってより効率的な学習が期待できる場面においては,教師は「コーディネーター」として生徒と社会を繋ぐ役割に徹すればよいという考えだ。また,未来のキャリア教育を巡る構想も興味深い。内閣府や経産省が進める「Society 5.0」に向けた教育DXの潮流と文科省が掲げる「令和の日本型学校教育」は,一見すると真っ向から対立しているようにも映る。現状では,文科省側の構想がやや劣勢にあるようにも見受けられるが,この政策間の相克は今後の教育現場に大きな影響を与えるだろう。

こうした中,今後のキャリア教育が目指すべき方向性として提示されたのが「エージェンシー」というキーワードである。これは「変化を起こすために,自ら目標を設定し,内省し,責任を持って行動する能力」と定義される。特筆すべきは,単なる社会への「適応」に留まらず,状況をより良く変えるために「抵抗」する力量までを含んでいる点だ。

このエージェンシーを育む方策として,労働法教育をはじめとする「シティズンシップ教育」の活用が挙げられている。キャリアには「ワーク」「ライフ」に加え,社会参画を意味する「シティズンシップ」の三本柱があると言われるが,本書が説くエージェンシーこそが,まさに3本目の柱に「抵抗」という能動的な要素を吹き込む鍵となるのであろう。

参考文献

誠信書房
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