はじめに
私が読書を始めたキッカケや他に読んだ書籍については,以下のページにまとめています。
基本情報
| タイトル | キャリア・スタディーズ |
|---|---|
| 著者 | 田中/遠藤/梅崎 |
| 出版社 | 日本能率教会マネジメントセンター |
| 発売日 | 2024年09月19日 |
| ページ数 | 264ページ |
概要と感想
本書は2014年に刊行されたキャリアデザイン学への招待のアップデート版として位置付けられている。法政大学キャリアデザイン学部の先生方が執筆されている書籍であり,各分野がそれぞれ10ページ前後で簡潔に解説されている。学術的にキャリアデザイン学を俯瞰して学ぶことができる良書である。
ここでは,管理人に刺さったいくつかの章を紹介する。まず,児美川は次のように指摘する。
戦後の教育研究は,ライフキャリアの幅広い領域において,個人の「キャリア発達」やその支援を対象とする研究を蓄積してきた。それは,教育学という学問の目的と対象から自然に導かれたことである。ただし,教育研究が対象としたライフキャリアには,当然,ワークキャリアも含まれていたが,そのワークキャリアの把握の仕方には独特の"偏り"が存在した。その偏りとは,…端的に「労働への饒舌,職業への寡黙」と表現することができる。
「キャリア・スタディーズ」p.14-15より引用
戦後の教育では「人はなぜ働くのか」は雄弁に語っていたものの,実際の職業選択や労働市場の問題については詳細を語ることから避けていたのだという。これは
- 戦後の教育が戦前の早期職業分化への反省から始まっている点
- 「労働者教育に関する事項の了解」により,労働者向けの職業教育は労働省,一般の生涯教育は文部省が行うという縦割り分業が成立してしまった点
- 戦後の教育学は人間解放の観点から労働を哲学的に論じるマルクス主義の影響を受けている点
- 日本的雇用システムにより入社後に企業内教育訓練によって職業能力形成がなされるが点
が理由として挙げられている。こうした状況から,バブル経済の崩壊をきっかけに学校制度から労働市場への「移行」に注目が集まるようになってきた。しかし,その移行に関する研究は「新卒採用から日本的雇用へ」という典型ルートからの逸脱を対象としたものが多く,典型ルート自体への研究が少なかったと論じられている。ただし,例外パターンから正規パターンの姿を浮かび上がらせる考えを肯定する考えもある点には注意が必要だ。
管理人が本書で最も刺さった箇所を抜粋する。
個人が知りうるキャリアに関する情報や志向もまた,社会構造の影響下にある。個人は規範的構造へと社会化されており,その構造が,個人の選好だけでなく,何が可能な選択肢であるかについての認知をも形成するからである。特定の社会的立場に置かれている集団が,その集団内において望ましいとされる価値観や行動様式を内面化して特定のキャリアを選択し,結果として再生産していく様相を,多くの研究が描き出している。
したがって,個人の置かれた社会的文脈を無視して素朴に自己を称揚する実践をなすことは,結果として「階級に特徴づけられた社会構造の規則性に日常的に個人をしたがわせるイデオロギーの作用を助ける」ことになる。それぞれがキャリアを通じた自己実現にむけて努力することが大事だというキャリア教育現説や,個々人の選択を等しく尊重するという教育言説は,現実の社会構造から目を背けさせ,不平等を隠蔽する言説であるばかりか,置かれた状況を自己責任とみなす言説として機能している。キャリア教育の実践のあり方は,社会全体の規範や制度,政策のありようから,決して中立ではない。
「キャリア・スタディーズ」p.22-23より引用
管理人はつい最近まで,まさに「キャリアを通じた自己実現に向けて努力することが大事だ」という強い思想を抱いていた。しかし,この主張を読んだとき,穴があったら入りたいほどの恥ずかしさを覚えた。あらゆる文脈の中で悩める方達に対し,結果が出ないのは努力不足だとか,努力もしないで文句を言うなとか,“強者の論理”によって無自覚のまま踏み躙ってきたのだ。
すべての人には固有の社会的文脈が存在する。その背景に想いを馳せることなく,短絡的に「努力不足」と決めつけてしまうのは,あまりにも自分本位な考えではないか。平等に扱っているつもりでも,実際には社会で価値が認められやすい選択や,自分が良いと考える選択を無意識に偏重してはいないか。自分の見えている世界が自分自身のバイアスに強く歪められていることに気づかないまま生きてこられたのは,ある意味で奇跡であり,そしてその陰には周囲の大人たちが常に尻拭いをしてくれていたという事実があるのだろう。
以下も切れ味が鋭い。
学校において,キャリアアドバイザーなどの「指導」に関わるスタッフが,生徒にとって「非現実的」とみなされる機会への挑戦を思いとどまらせる機会の「門番」として機能し,そうすることで社会の不平等を個人の選択の問題にみせかけている…
日本でも,生徒の興味・関心に重点を置いた進路指導/キャリア教育が,生徒たちが自ら業績主義的な競争から撤退し,不安定なキャリアを選択したかのように見せかける構造を持っていることが明らかにされている。
「キャリア・スタディーズ」p.24より引用
こちらも鋭い。
社会的に恵まれない立場にある個人を対象に,よりよいロールモデルを提供し,自尊心を高める働きかけを行うなど,個人の意識の変化に焦点を当てた「指導」の方法は,個人にとっては社会的上昇移動をもたらすよい実戦に見える。しかし,ワッツによれば,これらは個人のある程度の移動を奨励するものの,既存の社会構造のあり方自体は肯定・強化され,不利な状態にとどまる人にはなんの恩恵も与えないという問題がある。
「キャリア・スタディーズ」p.24より引用
本章の著者は,以下のように締め括っている。
本節で確認してきたことは,キャリア形成という複雑化した「軌道」のあり方が個々人の才能や特性,仲間集団,家庭環境,学校の実践,教育制度などから様々な影響を受けているなかで,キャリア教育の実践もまた,そこに関与しているという事実である。このことを実践に関わる側が意識すると同時に,自らの実践が持つ立場性や価値観,社会政治的性格を自覚すること,そして,自らの実践が不平等を助長するのか,それとも軽減するのかについて顧みる態度を持つことが求められている。
「キャリア・スタディーズ」p.26より引用
別の章でも,ウェルビーイングの文脈で同様の指摘がある。
職場の生産性向上のために,従業員のウェルビーイングを高めるという考え方には批判もある。ガバナスとイルーズは,ポジティブ心理学を批判し,ウェルビーイングを政策的に推進することが社会や組織の問題を個人の心理の問題に置き換えてしまう危険性を指摘している。さらにはウェルビーイングを商品化する幸せ産業がむしろ不幸を招いているという。
「キャリア・スタディーズ」p.126より引用
多くの中小企業では育成を前提としない「空きポスト補充中心主義」を採用しているが,育成を前提とした「候補者中心主義」へとシフトさせる必要性も説かれている。変わるべきは求人側であって,求職者ではないという考えだ。「空きポスト補充中心主義」は「会社は慈善事業ではない」という考えに基づくものであるが,雇用主に「慈善的論理」があって初めて労働力開発も地域経済開発も成功するという研究がある。
大人の当事者意識の欠如を指摘する章もある。
我々大人が,子どもや社会に対して,他人事のように漠然と期待するだけでなく,自分自身にできることは何であろうか?…日々地元で顔を見かける子どもたちにとって,自分がどんな存在に見えるかを自覚しているだろうか?子どもたちにとっての自分は,親でも,学校の教師でも,習い事や塾の先生でもない。だが間違いなく「近くにいる大人」なのである。そんな大人が意外にも重要な存在なのだと認識することである。見ないふりをするのでなく,目を合わせて,軽い挨拶や声がけをするとよい。…そうした日々の世代間交流の積み重ねは,子どもたちの将来にとって大きな意義を持つだろう。
「キャリア・スタディーズ」p.112より引用
以下は言われてみれば当然のことだが,改めて刺さった箇所だ。
人生の到達目標は幸せになること,すなわちウェルビーイングを追求することであり,その他のものは,それが仕事での成功であれ,経済的に豊かになることであれ,全てが手段でしかない。…人は幸せになるために生まれたのに,幸せになるようにはデザインされていない…専門的にキャリアデザインを学ぶ意義は,この課題に向き合うことにあるとも言える。
「キャリア・スタディーズ」p.114より引用
これに関連して,以下の内容も管理人に深く刺さった。
幸せな労働者は生産性が高い。幸福はキャリアの成功に先行することが多く,ポジティブな感情は職場の成果の改善につながることが示されている…
「キャリア・スタディーズ」p.126より引用
管理人自身は長い間,目の前の勉強や仕事を第一優先にして取り組んできた。自分の強みとして「一度立てた目標に対し,達成するまでフルコミットするスタンス」があるが,今振り返ると,広義のキャリアデザインの観点では視野が狭かったと感じている。
学生時代に自己分析を行って以来,社会人になってからはワークキャリア以外の文脈で自己分析や内省を一度も行ってこなかった。結果として,自分で設定した目標に固執し,没頭して達成することはできるが,その後には孤独感と虚無感が残される。真っ直ぐに走り続けるのは良いことだが,そのプロセスで周囲の人間を傷つけていないか,その先に自分がどのような状態になり,どのような感情になるのか。想像力や周囲への共感力が圧倒的に不足していた。
当然,仕事上のつながりはあるものの,仕事以外のつながりを犠牲にしてまで目標に固執していた自分がいた。おそらく,人生において仕事が最優先に来ることはないのだろう。日々の幸せな生活があってこそ,仕事での充実感や達成感を味わうことができる。日々の幸せがなければ,充実感や達成感の代わりに,孤独感と虚無感が押し寄せるだけなのだ。
支援対象となる個人またはコミュニティに対して人が中心となって行う実践的な介入をプログラムとよぶ。プログラムには利用者や支援者だけでなく様々なステークホルダーが存在し,
- 完成したプログラムは組織的な文脈への配慮やトラブルシューティング
- プロセスのモニタリング
- アウトカムの評価
- 持続可能性・自立発展性
が重要になるが,これらに焦点を当てた研究がプログラム評価である。プログラム評価の研究は実験心理学に立脚するものであり,以下のように述べられていた。
どのような目的であっても,プログラムは個人や社会の状況の改善を目指した実践,すなわち"善いことの実践"であるため,支援者が最善をつくし利用者を支援しさえすれば,結果が後からついてくるのをただ待てばよいのではないか,という考え方もあり得よう。…しかし,プログラムの実践者の役割は,行っている介入が効果を上げていることを"信じる"ことであるのに対して,評価者の役割は,それを"疑う"ことであるとされている。この疑うことこそが,科学的根拠や説明責任の探究であり,これがプログラム評価の意義や目的の一つとなる。
「キャリア・スタディーズ」p.119より引用
管理人もメンバーのWillと向き合ったり,ミッション決めやその評価を行ったりする立場となり,プログラム評価の難しさを日々感じている。短期的な事業価値貢献などはKPIやOKRなど軸が明確であるので評価も一定しやすい部分はあるが,長期的な育成やキャリア支援などは評価が非常に難しい部分である。企業においては短期的な目線に終始してしまうと時代の流れに取り残されてしまい,気づいた時には手遅れになってしまう。常に長期的な目線も備える必要があるが,成果が出るまでに時間を要することや評価の難しさから,ついつい短期的な目標を追い求めてしまうというのはよくあるパターンであろう。
プログラム評価について,本書では以下の参考文献が紹介されていた。
- 安田節之「プログラム開発と評価のためのキャパシティビルディング:5段階アプローチ」2018
- 岩壁・杉浦「現代の臨床心理学4 臨床心理学研究法」東京大学出版会, 2022, 169-193ページ
- 安田節之「プログラム評価:対人・コミュニティ援助の質を高めるために」新曜社, 2011
従来の日本社会は,終身雇用制度に代表されるように無限定性を有していた。しかし,長寿化と少子高齢化がもたらす人手不足や,キャリアブレイク・リカレント教育との相性の悪さから,日本社会は限定的な働き方が前提となってきている。この日本社会の限定性に着目し,キャリアをモザイクアートとして捉える主張も興味深かった。
サステナブルキャリアと限定性を尊重する社会を組み合わせて考えるとするなら,それはモザイクアートとしてのキャリアではないかと考えている。それは個人が限定性の尊重を前提としつつ,自分自身の限りある資源を大切にしながら,その資源をどう分配していくかに関心を持つキャリアである。…仕事,家庭,社会活動,学習活動を柔軟に組み合わせて人生の意義を高めることができる「ポートフォリオ・ワーカー」なのだ。
「キャリア・スタディーズ」p.186より引用
管理人は学生時代に自己分析の結果,幸せの10箇条を定義した。この中に「人生のポートフォリオを埋める」というものがあったが,今思えばそのポートフォリオはワークキャリアをスコープとしたものであった。家庭や社会活動を見据えなければ「人生の」ポートフォリオにならないのに,仕事上で自分が成長していく過程をポートフォリオとして考えていた自分の視座の低さを思い知らされた。
本書の終盤では「プロティアン・キャリア」という概念が紹介されている。プロティアンとはギリシャ神話に出てくる,思いのままに姿を変える神のことを指している。伝統的キャリアは組織から与えられるもので,他人からの尊重や「何をするべきか」に焦点を当てていた。一方,プロティアンキャリアは個人が主体的に形成していくもので,自分の尊重や「何をしたいか」に焦点を当てる。なお,児美川著「キャリア教育のウソ」では,この「Willを第一に尊重する」キャリア教育の危険性について丁寧に指摘をしているので,別の機会に紹介したい。


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